【印象派】に詳しくなろう!概要編

美術

『印象派』って聞いたことがあるけど、結局何だろうという方が多いはず。
という訳で、今回は印象派をメインに解説していきます。

ちなみに印象派の始まりは、19世紀(1801~1900年)のフランスになります。

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印象派って何だろう

印象派の絵の特徴で言うなら、

    自然と市民をテーマにした絵画

のことです。

また、印象派というのは、

    当時社会から認められなかった画家たち

の集まりでした。
これだけでは何のこっちゃ分からないですね。

ではまず初めに、とっつきやすい絵の特徴からお話ししましょう。
『自然と市民をテーマにした絵画』とありますが、なぜそのような絵を描くようになったのでしょうか。

そのポイントは以下の3つです。

  • 当時は宗教画貴族の肖像画メインだったこと
  • 革命のアイテムチューブ絵の具が出てきたこと
  • 産業革命による市民の余暇とパリ万博による日本ブーム到来したこと

さて、これらの点を意識しながら、さらに詳しく解説していきましょう。

当時は絵画といえば、宗教画or貴族肖像画

まず一つ目のポイントして、
印象派が出てくる以前の絵画は、宗教画か貴族の肖像画でした。

『カトリックとプロテスタント、ここが面白い!』でも説明したように、
当時のキリスト教は、言葉が通じないゲルマン民族に対して宗教を教える必要がありました。

当然ですが、言葉が通じないということは、文字も読めません。そのため、ビジュアルを通して教えるという方法が広まりました。
ビジュアル面で教えるというのは、聖像もしくは絵画を使って教えたということです。

そのため、絵画のメインテーマはキリスト教だったのです。
そしてもう一つの、貴族の肖像画というのは、当時教会の資金のバックボーンだった貴族が個人的にオーダーしたこともあり、肖像画も描かれていたというわけです。
こちらに関しては、結局【レオナルド・ダ・ヴィンチ】って何がすごい?でも解説していますので、気になった方はご覧になって下さい。

さて、以上が印象派が出てくる以前の絵画についてでした。

絵画の革命であるチューブ絵の具

さて、実はのところ、
チューブ絵の具の誕生が印象派を生んだといっても過言ではありません。

チューブ絵の具は、みなさんが小学校のころ、
図工の時間に絵具を使ってお絵かきをしましたよね?まさにその絵具です。

では、なぜチューブ絵の具がそれほど画期的だったのでしょうか。
ズバリ、

外に出れるようになったから

です。

それまでの絵具というのは、『顔料という岩を砕いて、油で溶かしたもの』を絵具にして描いていました。
そのため、外で描くことができなかったのです。

顔料であるでっかい岩石を外に持ち運んで、さらに岩石を砕いて油で溶かして…という工程を外で出来るでしょうか?
このように、アトリエという室内で描くのが一般的だった時代に、チューブ絵の具は絵画の革命だったのです。

産業革命と日本ブーム

印象派が生まれた時代は、産業革命以降です。
それによって市民たちは裕福になり、そして余暇が生まれました。

また、そのころ開催されたパリ万博によって、日本の浮世絵が知れ渡るようになります。
浮世絵は、『のっぺりとかかれているが、色彩鮮やか』『変わった視点から見た市民の日常を描いている』などが当時の絵描きに刺激を与えました。

市民を描くことがそんなに刺激になるのか?と疑問になりますが、
先程も言ったように、これまで『市民の日常』をメインに描かれた絵画はありませんでした。
その為、当時の絵描きからしたら全く新しいものを目にした感覚だったと思われます。

印象派はこうして生まれた

さて、以上のポイントを踏まえつつ、印象派が生まれた経緯を説明しましょう。

『一人前の画家』として認められるために、当時の絵描きはあることをしなければなりません。

貴族の御用達のサロン

当時、一人前の画家になるためには、
貴族たちのサロン(グループみたいなもの)の中で絵を出展し、そこで貴族に認められなければなりませんでした。
しかし、サロン内で認められるためには、今まで通りの宗教画や貴族の肖像画を描かなければなりません。

もちろん、そのサロンで認めれなかった画家もたくさんいました。

そんな中で、チューブ絵の具(外で描く風景画のきっかけ)や日本画(一般市民を描くきっかけ)のブームも到来し、風景画や一般の市民を描く画家が達が増えていきます。

自主展覧会を開く

そして後に、画家たちが貴族たちのサロンとは別で自主展覧会を開きます。
これが印象派の始まりです。

宗教画や肖像画だけでなく、自分たちの描きたいものを描きたい

サロンで認められることが一人前の画家なのか?

という様々な思いの中で、印象派の個展が開かれました。

この自主展覧会は1,2年周期で8回行われており、第一回で出された作品が、
モネの『印象日の出』です。
おそらく一度は目にしたことがあるのではないでしょうか

作品の評価は。。。

しかしながら、作品の評価としては悪く、
貴族たちからは『ぼやっとしていてなんだかよく分からない』と酷評されました。

また、印象派という言葉は実は、
『ぼやっとして、印象としてしか分からない』という悪口から来ています。

このようにして、第一回目の印象派による個展は、酷評で終わってしまいます。

そして第二回の展覧会を開くが、

第2回での展覧会も約1年後に開かれ、

モネは『ラ・ジャポネーズ』
ルノワールは『陽光の中の裸婦』を出展します。

しかし、第二回でもまた酷評されます。
特に『陽光の中の裸婦』は引きで見ればきらきらとした光が当たっており綺麗ですが、
近くで見れば女性の肌に緑や黄色や青などいろんな色が使われており、
『腐った死体の絵だ』と酷評されてしまいます。

というのも、当時の主流は、肌は一色でパキっと描く流派がほとんどで、多種多様な色は使いませんでした。

その後は

そしてその後、計8回ほど展覧会を行います。
1、2年の置きに計8回開かれた展覧会を経て、
印象派の絵は、少しずつ少しずつ世の中に浸透していきました。

以上が印象派の生まれた背景と流れになります。
次回は、一度は聞いたことがある、モネ、ルノワール、ゴッホについて取り上げます。
さらに詳しくなってしまいましょうね!

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まとめ・参考文献

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