【キリスト教・カトリック・プロテスタント】変化の歴史

世界史 宗教

今回は、カトリックとプロテスタントをメインに取り上げ、
それぞれが出来た経緯や特徴の違いをメインに説明したいと思います。

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カトリックとプロテスタントの特徴

そもそもカトリック・プロテスタントは、

もともとキリスト教

です。

キリスト教って言われてもそんなに知らないよ…という方は
  >> ズバリ一言でまとめたい【ユダヤ教】【キリスト教】【イスラム教】
を見てざっと復習しましょう。

さて、これらふたつの流派の根本が、キリスト教であることが分かりました。
では、それぞれの違いは何でしょうか。

  • カトリック:
    雰囲気:豪華
    システム:神>教会>聖書>信者のピラミッド関係
    特徴:偶像崇拝OK、贖宥状(しょくゆうじょう)の販売
  • プロテスタント:
    雰囲気:質素
    システム:聖書主義。協会はあるがシンプルで質素
    特徴:シンプルで聖書主義。偶像崇拝もなるべくしないようにしたい

また、カトリックにも2段階の変化があり、

  • カトリック第一形態:
    偶像崇拝の解禁:ゲルマン民族に教えるため
  • (ここでギリシャ正教と分かれる)

  • カトリック第二形態:
    贖宥状の販売:サン・ピエトロ大聖堂の改修の資金集め
    (ここでプロテスタントと分かれる)

と変化していきます。
では、それぞれがどのように分裂していったのかを見ていきましょう。

キリスト教からのカトリックとギリシャ正教へ

まずはキリスト教から、カトリックギリシャ正教に分裂します。
その経緯を見てみましょう。

前置き

さて、キリスト教というのは、ローマ帝国によるバックボーンがありました。

国教になることで、キリスト教が強い権力を持つことになるのです。
また、宗教を国に取り入れることで、民衆を統一しやすいということもあります。392年のことです。

ところが、国教になって間もなくしてローマ帝国は大国を保てなくなり、西側と東側に分かれます。
ローマ帝国が衰退し、分裂した西側ローマに注目してみましょう。

分裂時と同じ時期に、西ローマの上の方からゲルマン民族が移動してきます。そして空いている西ローマに、ゲルマン民族が住み着き、めでたくフランク王国を建国します。

教皇の不安

さて、西ローマがフランク王国となり、良く思わないのが教皇です。
 >>教皇と皇帝の違いが分からない方はをどうぞ

かつてローマ帝国キリスト教として納めていた場所に移民が占領してきたわけです。
キリスト教でもない異国の民が、布教していた地に入ってきたわけです。良い顔はしませんよね。

フランク王国、キリスト教に入信

ところが、フランク王国は、国民を統制するために、キリスト教に入信したいと言ってきます。

実は、こうなると話は別です。

なぜなら力が無くなっているキリスト教の教皇にとっては強大なバックボーンを持っておきたいわけです。
つまり、フランク王国も、教皇にとっても、Win-Winの関係でした。

偶像崇拝の解禁

ところが困ったのは、ゲルマン民族が聖書を読めませんでした。
なぜなら当時、聖書はラテン語オンリーで書かれており、移民であるゲルマン民族が読んで理解するには無理がありました。
(ちなみにゲルマン人はゲルマン祖語という言葉を使っていたらしいです)。

その時役立ったのが、聖像を使う事です。
目に見えるように像や絵にして伝えれば、文字で言うよりも圧倒的に分かりやすい。これが功を奏して、ゲルマン民族の信者がどんどん増えていきます。

しかし、問題なのはキリスト教はユダヤ教系列であるため
『偶像崇拝禁止』であること。また、『ビジュアル的に伝える事』もあまりよくない事とされていました。

しかしながら、バックボーンである国の信者獲得が大事というで、偶像崇拝を解禁し
西側のフランク王国一帯はカトリック(第一形態)として分かれることになります。

カトリック(第一形態)とギリシャ正教

このようにして、フランク王国(西ローマ)はカトリック(第一形態)となり、偶像崇拝を解禁しました。

しかしながら、その当時の東側のローマ(この当時はビザンツ帝国)は、西側のフランク王国が『偶像崇拝を解禁』したことを聞いて、

『いやいや、俺たちはキリストが示してくれた教えのままで行こうよ!』ということで、カトリックと対比して『ギリシャ正教』(正しい教え)と名乗るようになります。

そうして明確にカトリック(第一形態)とギリシャ正教に分かれました。
年代は11世紀ごろです。キリスト教が国教化してからずいぶん経ちましたね。

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贖宥状によるカトリック第二形態

さて、カトリックの第二形態というのは、
皆さんご存じの贖宥状(しょくゆうじょう)が出てきてからです。
(免罪符と習った方もいるはず。今は贖宥状の呼び方が正しいです。)

そこから、カトリックからさらに、プロテスタントに分かれることになります。
贖宥状が必要だった理由は簡単で、

サン・ピエトロ大聖堂の改修の資金集めのためです。

16世紀ごろ、教皇レオ10世が行った施策なのです。

また、このころ丁度、ペストが流行っており、民衆は『死んだらどうなるのか』という不安でいっぱいでした。そこで出された贖宥状による『お金を払ったら救われる』という考えが民衆にドンピシャだったのです。

さて、贖宥状が出てきてから『それは違うだろ!』と反発するように出てきたのが
ルター率いるプロテスタント(抗議する:プロテスト)になります。

では、再度カトリックとプロテスタントの特徴をまとめてみましょう。

  • カトリック:
    雰囲気:豪華
    システム:神>教会>聖書>信者のピラミッド関係
    特徴:偶像崇拝OK、贖宥状(しょくゆうじょう)の販売
  • プロテスタント:
    雰囲気:質素
    システム:聖書主義。協会はあるがシンプルで質素
    特徴:シンプルで聖書主義。偶像崇拝もなるべくしないようにしたい

さて、プロテスタントの生みの親であるルターは、カトリックに対して、かなり巧みな方法で抗議をします。
新しい活版印刷の技術を使って、イラスト付きの抗議のチラシや論文を書き、印刷し、また、ドイツ語に訳した聖書を書いて、バンバン印刷していきます。

これがいわゆる宗教改革と呼ばれているひとつになります。
今回はカトリックとプロテスタントをメインでお話ししましたが、他にもカルヴァン派が現れたり、離婚したいためのイギリス国教会も出てきます。こちらはまた今度にしましょう。

まとめ

さて、今回はキリスト教からカトリックに分裂するときの経緯を書いてみました。

学生の頃は、頭ごなしに単語をつなぎ合わせて何となく覚えていましたが、
一から考えると面白いですね。少しでも勉強になったのなら幸いです。

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参考文献

ゲルマン人:古代ローマも恐れたヨーロッパの覇者の特徴10