大和政権はなぜ、奈良を中心としていたのか
大和政権は奈良を中心として栄えていました。
さて、なぜ奈良県で栄えたのでしょうか。今回はそのあたりを探ってみましょう。
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実のところ、よく分かっていない
早速答えを言って申し訳ないですが、この時代のことは良くわかっていません。
日本にはまだ文字がなかったため、中国の歴史書を頼りに紐解くしかありませんが、この時代は中国も戦争になっており、その歴史書も途絶えます。
そして、そのまま聖徳太子で有名な飛鳥時代に突入することになります。
ちなみに飛鳥時代は、奈良県の明日香村付近に都が置かれました。今でいう、東京を首都とするところが奈良県あたりだったというわけですね。
これにより、その前の時代の大和政権も、今の奈良県付近にあったことが示唆されます。飛鳥時代の飛鳥京のあと、平城京・平安京と続きますが、それは大和政権が奈良付近で勢力を強めていたことが伺えるわけですね。
しかし、最初から奈良県だったわけではないようです。
卑弥呼が治める邪馬台国
大和政権の前は、卑弥呼が治めていた邪馬台国ではないか?と言われていますが、邪馬台国はどこにあったのでしょうか。
卑弥呼が治める邪馬台国は、本当によく分かっておらず、九州か近畿かどちらかにあったのではないか?という説があります。
九州に邪馬台国があったとすると、どんどん日本の東に進み、奈良県あたりで大和政権となり、そのまま飛鳥時代となったと考えるのが一番簡単でしょうか。また、近畿説を推すとするなら、九州地方は別の国が栄えていて、邪馬台国の属国で、交流もあったことになるのではないか…など、いろいろ予想することができます。
これらの説は、中国の魏志『倭人伝』の中の邪馬台国の位置を表す記述がもとになっています。
記述してある通りの方角と距離行くと、日本から外れます。そこで、方角だけをいじって距離だけ合うようにしたのが近畿説、距離だけをいじったのが九州説というわけです。
というわけで、邪馬台国がどこにあって、どんな国だったのかということは今でも議論が尽きません。
まとめ
大和政権は今の奈良あたりで栄えていたのは分かっているけど、その途中(邪馬台国あたり)はよく分かっていない。
とりあえず、奈良県付近で飛鳥時代が始まる(聖徳太子や推古天皇の時代)。
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おまけ
以下はおまけです。
邪馬台国については実は福井県にあったのではないか、という説もあります。
この説を推している著者は、『その地域で、米は作れるのか?』ということを元に探したそうです。そうすると候補として福井県が入ってきます。
また、魏志『倭人伝』に出てくる邪馬壱国は、『やまたいこく』と呼ぶのではなく、当時の発音では『さばいこく』と呼ぶべき、というのがあるそうで、そうなると福井県の鯖江市に該当しそうですね。
他にも、古事記に登場するヤマタノオロチ伝説には、『高志のヤマタノオロチが…』と続くのですが、その高志(こし)という呼び方が、後に越(こし)となり、福井県の敦賀市から山形県庄内地方の一部を指すようになります。
ヤマタノオロチ伝説は、出雲のスサノオが、ヤマタノオロチを倒したという伝説ですが、これは強大な敵国の高志(福井県~山形県あたり)が出雲を攻めたが、出雲が追い返した、ことを表すのではないか、とも言われています。
というわけで、URLを貼っておくので気になる方はどうぞ。
また、話がちょっと変わりますが、古事記を読んでいくと、当時色々な王朝があったのではないかということが読み取れます。
古事記は歴史の勝利者、すなわち当時壬申の乱に勝利した天武天皇の命によって古事記プロジェクトが始まりました(この辺りは別記事でまた解説します)。そのため、天武天皇に有利な形で物語が作られている可能性があります。
古事記に登場する、当時あったのではないかと思われる国は、たった今紹介した出雲の国と富士山近くにある富士王朝とよばれる国です。
出雲の国は、『国譲り』という話が出てくるところから、出雲の王朝はあったと思われます。
そして、富士山近くにあったであろう富士王朝は、古事記の記述には出てきません。それどころか、富士山も登場していません。同じころ出た万葉集では、富士山の記述が多くあります。つまり、それだけ富士山について記述したくなかった何かがったことが示唆されます。
まとめると、出雲の王朝は、大和政権(古事記を書いた側)が何とか征服できたが、富士王朝は征服できず、長らく敵対していたため古事記に書きたくなかった、と考えることができます。
- 大和政権
- 出雲王朝
- 富士王朝
もちろん、大和朝廷が現在の天皇家に繋がるものとなります。
いずれにせよ、日本の始まりはよく分かりませんね。