【ローマ帝国の誕生】尊厳者:アウグストゥスが生まれるまで
アウグストゥスという単語を聞いたことがあるでしょうか。
実は、アウグストゥスの誕生によって、ローマ帝国が始まりました。
しかしながら、ローマ帝国に至るまでは決して順調ではありません。あちらこちらとぐらぐら揺れつつ、ある日すんなりとローマ帝国となりました。
今回は、そのローマ帝国誕生に至るまでを紹介できればと思います。
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アウグストゥスとは
まず、先程から言っているアウグストゥスとは何でしょうか。
アウグストゥスは尊厳者(そんげんしゃ)を意味します
尊厳者といいつつ、実質の初代皇帝を表します。
ここからローマ帝国が始まっていくわけなのですが、ここで疑問が浮かびます。
素直に『皇帝』と名乗ればいいじゃん!と。
しかしながら、それにはできない理由がありました。
皇帝ではなく、なぜ尊厳者か
実は、アウグストゥスという回りくどい名前を付けたのには理由があり、
『それまでのローマの政治体制』と『カエサル』に関係があります。
それらを踏まえ、以下の2点
- 共和制から三頭政治
- カエサルの終身独裁官発言
について、重点的に解説しましょう。
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共和制から三頭政治
まず、平和だった共和制から、三頭政治という体制に移り変わっていくのですが、
いくつかトリガーがあります。それは、
- ポエニ戦争による領土拡大・カルタゴ市民の奴隷化
- 市民が市民として機能しなくなった
ということです。
ですが、これを理解するには、共和制ローマの政治体制をまずは知る必要があります。
共和制ローマの政治体制とは
まずは、それまでのローマの政治体制はどうだったのでしょうか。
紀元前約500年は、共和制ローマと呼ばれていました。
共和制とあるように、代表者を市民たちが選挙によって決め、政治をしていました。
代表というのは、『自分の意見をより反映してくれそうな人』のことで、その代表者に政治を任せるという事ですね。
これはいわゆる間接民主制で、今と同じです。
そして、最終決定権は『元老院』という、貴族の長老達から成る機関によって決められます。
そのため、『誰か一人の意思で決まる』という体制はとれなかったことが分かります。
このように間接民主制を取ったのには理由があり、単純に人が多かったからです。
人が多いと数えることが困難になります。
『直接民主制』が取り入れられていました。
直接民主制というのは、市民がどこか会場に集まって、政治のやり方を、直接市民が決める事です。間接民主制では、代表者を決め、その代表が代理で政治をやってもらう形式をとっていましたね。
実はポリスという都市国家で直接民主制が可能だったのは、小さい規模だったのです。市民を数えられる範囲だったため直接民主制でも可能でした。
しかしながら、共和制ローマはポリスと比べ大規模国家です。
それだけ人が増えれば、きちんと数えること困難になります。ローマという大きい国では、直接民主制が適さなかったわけです。
さて、共和制で平和にやってきたローマも、あることをきっかけに揺らいで行ってしまいます。
ポエニ戦争による勝利
きっかけは、ポエニ戦争による勝利からすべては揺らいでいったと言えます。
『勝ったのに、なぜ?』と疑問に思うでしょう。
これによって、
- 領土拡大・カルタゴ市民の奴隷
- かつてのローマ市民の没落
が起き、共和制が揺らいで行ってしまいます。
ポエニ戦争とは、ローマ VS カルタゴとの戦いです。
カルタゴは、ローマの対岸にある国です。この戦いをローマが制することで、
地中海一帯をローマが支配することになります。
しかしながら、地中海一帯の領土が手に入ったこと、
さらには、負けたカルタゴ市民を奴隷にしてしまう事で悲劇が起こります。
まず、ローマ側の力を持っている貴族が、奴隷を利用して、手に入った領土で農作物を安く販売していくのです。
また、当時の戦争は農民が兵士を兼ねており、農民がポエニ戦争に出ている間、農地は荒れ放題になっていきます。
これらが原因で、今までローマにいた農民の作物が売れなくなり、
『やってられるかー』と内乱が起きたり、お酒におぼれるなどして市民の没落が始まります。いわゆる、大規模農園(奴隷で安く) VS 狭い農地(今までの価格)となり、安い労働力でたくさん作られてしまうため、今までの市民は勝ち目がありません。
このように市民が没落すると、政治の代表を決めることはできません。
そもそも生活が定してない状態で、政治どころではないのです。
以上から、市民が市民として機能しなくなってしまう、共和制の崩壊が始まります。
いったん元に戻そう!グラックス兄弟の施策
さきほどチラッと述べましたが、共和制ローマ時代では、兵力は市民を利用していました。
その市民が没落するとなると、ローマ自体も兵力が失われることになります。
では、市民を市民として元に戻せばいいのでは、ということで、グラックス兄弟が
『貴族の農地の買収に制限を設ける』、『制限であふれた土地は市民にゆずる』などの施策を実施しようとします。
が、叶いませんでした。
なぜなら、土地を持っている金持ちが反発し、逆にグラックス兄弟が死に追いやられる形になってしまいました。
これで、ローマを共和制に戻すことはできないことが分かります。
グラックス兄弟の改革が失敗となり以降、後にアウグストゥスが登場するまでの100年間を、内乱の1世紀と呼びます。
さて、グラックス兄弟の失敗から分かるように、
共和制に戻す以外の、何か新しい施策が必要です。
三頭政治の登場
さて、内乱に続く内乱の結果、残ったのは候補者として3人が選ばれました。
カエサル、クラッスス、ポンペイウスの3人です。
なぜ、3人かというと、バランスが良いからです。
2人では対立が起き、1人では独裁になってしまいます。
ちなみに、カエサルは人気の政治家、クラッススは富豪、ポンペイウスは将軍で、
偏りがありません。
このころも、元老院は存在していますが、実質3人で行う三頭政治が始まります。
ちなみに、3人の中でも指導者の資質を持っていたのがカエサルでした。
三頭政治の崩れ→カエサルの独裁?
ですが、紀元前58年に、領土拡大のための遠征でクラッススが戦死します。
先程も言ったように、2人の頭になってしまうと、内乱が生じるものです。
カエサルの人気に嫉妬したポンペイウスは、当時の元老院と手を組み、
凱旋から帰ってくるカエサルとその兵士らを、本国から追放します。
が、兵力を持っているのはカエサルですので、ポンペイウスは返り討ちにされてしまいます。
この時、カエサルが言った有名な『賽は投げられた』という言葉は、
これは、ポンペイウス討伐の際の発言でした。
この後ポンペイウスは、エジプトに亡命するのですが、逆にエジプト側に暗殺されてしまいます。その後、ポンペイウスを追ってエジプトに来たカエサルは、そこでクレオパトラと出会い愛人関係となるのですね。
カエサルの独裁発言
三頭のうち、あっという間にカエサルだけになってしまいました。
さて、この後カエサルがローマ帝国の初代皇帝になるのでしょうか。
残ったカエサル
クラッススが戦死し、ポンペイウスも暗殺され、残ったのはカエサル一人。
市民や兵士にも人気もあったカエサルが、次にとる行動はただ一つです。
『私がこの国をまとめます』と言い出します。
『終身独裁官』という、事実上の独裁政権を始めます、宣言です。
しかし、ここで急に怖くなったのが市民たちでした。
『カエサルは好きだけど、独裁は怖い!』と言い出します。
人気のあったカエサルでも、独裁となると話は別だったのでしょうか。カエサルを暗殺しようと、周りが動き出します。
そしてカエサルはついに暗殺されてしまうのですが、
一番信頼していた仲間に刺され、
と言葉を残し、カエサル失脚となります。
カエサル失脚の理由は、ローマ市民の意思をくみ取れず、独裁をするといったことでした。ですが、不思議なもので、カエサルの暗殺を喜ぶ市民はいなかったのです。市民は『誰かにまとめてほしいが、独裁は嫌だ』という微妙な心持ちだったのでしょう。それは、今も昔も変わらないことが分かります。
2度目の三頭政治へ
さて、独裁はダメであることがカエサル暗殺によって証明されました。
またもや三頭政治に戻そうという事で再度内乱が起きます。
結局のところ、オクタヴィアヌスとアントニウス、レピィドゥスが2度目の三頭政治を行いますが、
レピィドゥスが早々に失脚し、またもや2人の争いになります。
オクタヴィアヌスはカエサルの養子、
アントニウスはカエサルの部下で様々な功績をあげていました。
2人の内乱の結果、カエサルの養子であるオクタヴィアヌスが勝利します。
ちなみに、アントニウスは、あのクレオパトラと愛人関係になっていました。クレオパトラ逞しいですね。
アウグストゥスの誕生
さて、一人残ったカエサルの養子であるオクタヴィアヌス。
カエサルと同じように、『独裁しまーす』とは言えません。それではカエサルの二の舞です。
そこでとった行動が、自らを『第一の市民です!』と言い、
『権威はそれなりにあるけど、一般市民と変わりません』という宣言をします。
こうすることで市民を安心させ、かつ、共和制の象徴ともいえる元老院を尊重します。
そして、元老院からは尊厳者(そんげんしゃ)という称号を与えられるわけです。
この尊厳者こそが表題でも取り上げている『アウグストゥス』という意味です。
このようにしてオクタヴィアヌスは、
『私は一般市民として、みんなを引っ張っていきたいです』と宣言することで、
独裁政権という雰囲気を消しつつ、これからのローマの指揮を執ることになります。
そして、紀元前27年、アクタヴィアヌスは事実上の初代皇帝となり、
共和制ローマも、このころを境にローマ帝国と呼ばれるようになります。
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まとめ
今回はローマ帝国になるまでの経緯をまとめました。
共和制ローマから始まり、ポエニ戦争後に形成を戻そうとするがうまくいかず、三頭政治を経て、カエサルの独裁になると思いきや、またも三頭政治を経て、やっとローマ帝国と呼ばれるようになります。
もちろんこの経緯も面白いのですが、ところどころで
貴族や市民の『制限されるのは嫌だとか、独裁や嫌だ』など感情が強く出ているのも、また面白いところだと思います。
また、今回は触れなかったのですが、
ローマ人は根本的に『独裁を嫌う』傾向にありました。そのため共和制とすることで、しばらくはうまくやっていたわけです。しかし、ポエニ戦争によって状況が一変すると、市民が市民でなくなってしまい、そこから徐々に共和制に崩れ去っていきました。
ローマ帝国になるまでの経緯を見てみると、
人をまとめる、国をまとめるという事は単純ではないということが分かりますね。