【教皇】と【皇帝教皇主義】ってややこしい

世界史 宗教

教皇というと世界史では切っても切り離せないワードです。

ですが、ローマ帝国が西と東に分かれたあたりから
『あれ?教皇ってなんだっけ?』
『そもそも、東と西でふたり教皇がいたの?』
という錯覚に陥ります。
また、さらに似たワードとして皇帝も出てくるため、訳が分からなくなります。

というわけで、今回は教皇についてはっきりさせましょう。また、後半では、皇帝教皇主義についてもはっきりさせようと思います。

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教皇を抑えよう

教皇といったらカトリックの偉い人を表します。
教皇という場合は、ユダヤ教でもイスラム教でもなく、キリスト教カトリックの偉い人のことを指します。

そして、カトリックでの教皇の始まりは

イエスの弟子ペテロ

とされています。

また、ペテロが教皇(そのころは教皇とは呼ばれていませんでした)になったのは、ちょうど、キリストが処刑されたあたりです。
ローマ帝国で処刑されるのですが、その頃のローマ皇帝は2代目のティベリウスのときでした。

まとめると、

  • 33?年初代教皇:ペテロ
  • ~37年2代目ローマ皇帝:ティベリウス
  • 30年 :キリストの処刑

とりあえず、大体30年ごろに、キリストが処刑され、後を受け継ぐように教皇が生まれたということです。
初代教皇が生まれたときは、ローマ帝国は2代目の皇帝が治めていたのですね。

そして、教皇と皇帝の違いとしては、

  • 教皇:精神的な権威を持つ
  • 皇帝:現実的な権威を持つ

ということです。

ちなみに、人間は弱い生き物です、外面を強くでも、内面が弱いと何も成し遂げられません。そのため、精神的なサポートが必要でした。その精神的なサポートで一番の権力を持っていたのが教皇です。

そして、物理的にゴリゴリ行うための一番の権力をもっていたのが皇帝という訳です。実際、教会を建てたり、守ってもらったりということは皇帝側が行う事でした。

皇帝教皇主義って訳分からないよね。

教皇と皇帝が何となく分かったところで、次に皇帝教皇主義のお話をしましょう。
ですが、その前に、皇帝教皇主義が生まれた経緯をお話しなければなりません。

キリスト教が国教となってから

ローマ帝国はキリスト教が国教となったのち、間もなくして西と東ローマに分かれることになります。
のですが、一気に全部書きなぐってしまうと、かなりややこしくなってしまうため、国としての視点と、国教となったキリスト教の面で分けて見てみましょう。

国として視点

ローマ帝国が分裂する少し前に、ローマ帝国最後の皇帝であるコンスティタンヌス帝が、首都をローマからコンスタンティノープルに移転します。

コンスタンティノープルは今のイスタンブールあたりです。ヨーロッパと中東の境目に移動するわけですね。その頃のローマにはすでに、ゲルマン民族による侵略が始まっていましたので、少し遠くの首都であるコンスタンティノープルに移動してきたわけです。

  • 首都:ローマ → コンスタンティノープル

また、ローマとコンスタンティノープルには、キリスト教が治めていた重要な拠点(教会)がありました。

宗教としての視点を追加

で宗教として視点で見ると、どう変化したのでしょうか。首都を移転した時点では、まだカトリックは生まれていません。

そして、ローマとコンスタンティノープルをキリスト教の拠点としてもち、
ローマにはローマ帝国というバックボーンがありました。

  • ローマ:ローマ帝国
  • コンスタンティノープル:なし

ですが、ローマ帝国が首都をコンスタンティノープルに移してしまうことによって、現実的権威であるローマ帝国がいなくなってしまいます。

  • ローマ:なし
  • コンスタンティノープル:ローマ皇帝

この状態から先のゲルマン民族による移動をきっかけに、ローマ帝国が西と東に分かれます。
西ローマに、ゲルマン民族がフランク王国をたて、そしてキリスト教を取り入れます。

  • ローマ:フランク王国(旧 西ローマ)
  • コンスタンティノープル:東ローマ帝国

これに、宗教の流派と東ローマ帝国をビザンツ帝国と置き換えると、

  • カトリックフランク王国:ローマ
  • ギリシャ正教ビザンツ帝国:コンスタンティノープル

となるわけですね。
何をきっかけに二つに分かれたのか、という点については、カトリックとプロテスタント、ここが面白い!を参考にしてください。

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本題はここから

さて、問題はここからです。なぜかこの辺りから教皇がたくさん存在するような錯覚に陥ります。
かつての西ローマだったフランク王国を拠点とする教皇と、ビザンツ帝国側を拠点とする教皇が登場します。

特にビザンツ帝国では、皇帝教皇主義という、皇帝が教皇を兼ねることをします。反対に、フランク王国では皇帝と教皇は別々に君臨していました。

一見普通の参考書に書いてありそうな文言ですが、この辺りをも少しクローズアップしてみましょう。

誤解を招く、皇帝教皇主義

実は、ビザンツ帝国の皇帝教皇主義は間違いです。
『皇帝が教皇を兼ねていた』という事の何がおかしいのかというと、フランク王国の体制を見ると分かります。

西ローマ:フランク王国の体制

フランク王国では、皇帝と、カトリックの偉い立場である教皇の権威は、同じぐらいでした。

  • 現実的な権威は皇帝
  • 精神的な権威は教皇

このように、教皇は皇帝と同じぐらいの権威を持っており、一時期は、教皇が皇帝よりも権威を持っていた時代もありました。
この権威の元は、聖職叙任権(せいしょく じょにんけん)という、聖職者の人事権を誰が持つのかという点でした。ですが、これ以上は話がそれるため別の機会にしたいと思います。

ともかく、フランク王国では皇帝と教皇は同じくらいの権威をもっていたということ。
これだけ覚えてください。

東ローマ:ビザンツ帝国の体制

では、ビザンツ王国ではどうでしょうか。
皇帝とギリシャ正教の偉い人は別々に存在したのですが、一番の権力を持っていたのは皇帝でした。
ギリシャ正教の偉い人は総主教(そうしゅきょう)と呼ばれていました。
これは、カトリックで言うところの教皇の意味です。

  • ローマ教会側:カトリックは教皇
  • コンスタンティノープル教会側:ギリシャ正教は総主教(そうしゅきょう)

以上から、『ビザンツ帝国は皇帝教皇主義だった』というのは不思議な言い方であることが分かりますね。
そもそもの偉い人の呼び方が違いますし、西ローマを中心として、ビザンツ帝国を比較するような言い方とも聞こえます。積極的に使うべきではない単語と言えますね。

全体のまとめ

教皇や皇帝、最後はややこしい皇帝教皇主義について解説しました。
結論として、

  • 初代教皇はキリストの弟子ペトロ
  • ビザンツ帝国の皇帝教皇主義は間違い

ということでした。

また、これらの区別がつくと、教皇と言われたら、カトリックを指すということが分かりますね。

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参考文献

皇帝教皇主義(参考)

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書