ローマの基礎となった【キリスト教の国教化】

世界史 宗教

ローマとキリスト教は切っても切り離せない関係です。
教皇が生まれたり、皇帝と教皇が争ったりという歴史があるのも、ローマ帝国がキリスト教を国教化としたからです。
というわけで今回は、キリスト教国教化までの流れを解説しましょう。

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キリスト教が国教となる前のローマ

その前に、それ以前のローマはどうだったのでしょうか。
宗教的な面と、国の統治という二面から見ていきましょう。

それまでのローマの宗教観

そもそも、一神教のキリスト教が流行る前からローマには多神教による宗教がありました。ローマ神話、マニ教、ミトラ教などです。

多神教とはなんでしょうか?多神教というのは文字通り、目で見れる色々な神様がいるということ。
神様の特徴としては、ある能力値がすごく長けており、戦の神、愛の女神などです。
また、像やビジュアルとして形にでき、存在感を実感できるのが多神教の特徴です。

対して一神教は、全知全能で、目では見えません。
全ての能力に長けており、最強すぎるので人としての姿をしていません。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の偶像崇拝禁止というルールはここから来ているわけですね。
(ただし、カトリックにおいては偶像崇拝は…)

このように、当時のローマでは、キリスト教が流行る以前は多神教が流行ってた事が分かりましたね。

国の統治はどうだったか

ローマ帝国は、アウグストゥスが誕生することによって、ローマで初の皇帝による統治が始まりました。
いわゆる、専制君主制という『力を持った権力者が自由に政治をする』時代が始まります。

その後は様々な皇帝がローマを治めていきます。
五賢帝時代と呼ばれるローマ帝国がイケイケな時代もありました。しかし、その後は、『強い人が国を統治していけばいいや』というように、段々と統治が荒くなります。人を治めるのは難しいですね。

低迷期に神が現れる

はいはい、キリストが現れたんでしょ?と思ったら大間違いで、
ローマ皇帝のディオクレティアヌスが『私は神である。崇拝せよ。』
と市民たちに言います。

つまりは、皇帝を神とすることで、カリスマ性で国を治めようとします。しかしながら、時代はもう変わっていました。

キリストはそんなこと言ってないんですが…

『皇帝の私が神である』という発言は、多神教の流れをくむローマとしては一応ありでした。
しかしながら、同時期にキリスト教信者がかなり多くなっており、キリスト教信者からは『キリストはそんなこと言ってない!』と暴動が起きはじめます。
ここで、ローマにもともとあった多神教と一神教の流れがぶつかります。

このように宗教間の違いによって、各地で暴動が起きるのですが、ローマもすでに弱っており、抑えるのがだんだん難しくなってきます。

あっという間に国教に

暴動が起きすぎて抑ええきれなくなったローマ側は、次のコンスタンティヌス帝のときにキリスト教を公認します。
つまりはローマ帝国の宗教の一つとしてみなすよ』ということです。
そして、テオドシウス帝の時にはキリスト教はローマの国教となりました。

国教にするという事と、公認することにどんな違いがあるのでしょうか。
公認は他の宗教と共存するという事ですが、国教となると『他のマニ教やミトラ教は排除し、キリスト教のみを国の宗教とする』という意味になります。

このようにして、最近まで弾圧されていたキリスト教が、あっという間に国教となっていきました。

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まとめ・参考文献

ローマ帝国でキリスト教が国教になるまでについてまとめました。
これをきっかけに、カトリックの偉い人である教皇という概念が生まれ、国を治める皇帝とわちゃわちゃしていくわけです。

参考記事:キリスト教の国教化

参考:一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書