日本史⑥いい感じに理解する(平安時代:武士・摂関・院政)

日本史

前回:日本史⑤いい感じに理解する(平安:源平の誕生)では、
臣籍降下によって、源氏と平氏が誕生してきた、ということを解説しました。

そして今回、平安時代は、今まで天皇トップで治めていた政治のシステムが大きくと変わる時代です。
ちょっと複雑ですが、大きな流れさえ押さえておけば迷うことはありません。
では見ていきましょう。

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政治システムの移り変わり

文章で語るより、まず図を見せた方が理解が早いと思います。

歴史が苦手な方は、この図だけ覚えてもらえればOKです。
この図さえあれば、自分が今どの段階を学んでいるのかを知ることができます。

流れを解説していくと、

  • 桓武天皇の後、武士である平将門の乱
  • 藤原氏による摂関政治の影響が強くなる(藤原道長)
  • 院政の影響が強くなる(白河上皇とか)
  • 武士である平清盛ら平氏が強くなるが、最終的には源氏である源頼朝が勝つ

となります。

急に難しそうな文字が沢山でできましたが、人物名はとりあえず置いといて、まずは武士、摂関、院政の3つを押さえていきましょう。

これが分かれば、複雑な平安時代がなんとなくに分かるようになります。

武士の登場

武士が登場するのは9世紀のことです。
743年に成立された墾田永年私財法によって、荘園が乱立し始める、というのが事の発端です。

荘園ができた経緯は、公地公民(土地はすべて国家のモノ)と班田収授法(農民にその土地を貸すことで税を納めてもらう法律)の失敗です。農民は厳しい税から逃れる為に、土地を放棄してしまいます。こうなると、土地は荒れ果て、税は取れない状況になってしまいます。

そこで、仕方なく墾田永年私財法を発すことで、土地は『国家のモノ』から『開拓した本人のモノ』に変化しました。
この土地のことを、荘園と言います

税を逃れたかった寄進地系の荘園システム

さて、この荘園ですが、初期のころは財力があった寺や有力貴族やせっせと開墾していきました。
これは初期荘園と言われるのですが、こちらは10世紀初期には衰退し、新しいシステムの荘園が登場します。

それは、開発領主(有力農民)が作人(農民)や下人(農奴)を使って土地を開拓し、貴族や寺に寄進するという荘園です。
土地は寄進しても、土地支配権は開発領主(有力農民)が持ったままです。このように、土地を貴族や寺に寄進することで、虎の威を借る狐状態を作りました。

このように、自分のバックに大物をつけることで、税を少なくしたり逃れたりできたわけです。

土地のガードマンだった武士

税を逃れたいが為にどんどん土地乱立し始めると、自分の土地を守ろうとして、土地を管理している開発領主(有力農民)が武装化を始めます。
これが後の武士となりました。

また、荘園の寄進先は貴族や寺が主でしたが、こちらも淘汰の結果、賜姓皇族(しせいこうぞく)が寄進先となっていきました。

  • 開発領主 → 武士
  • 貴族や寺 → 賜姓皇族

さて、賜姓皇族は前回(日本史⑤いい感じに理解する(平安:源平の誕生))で紹介しましたね。
そして賜姓皇族の中でも源氏と平氏が多く残った訳です。

侍の由来とは?

さて、自分たちの土地を守るために武装した武士でしたが、武士はその後、朝廷の貴族の身辺警護にも用いられるようになりました。
身辺警護というと聞こえはいいですが、現代に置き替えれば、国が軍を持った様なものです。

また、武士は貴族の周囲に『さぶらう』者ということで、とも呼ばれました。

武士と源氏・平氏まとめ

荘園を守るのが武士で、その武士を統括していたのは源氏・平氏だっというわけです。

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藤原家による摂関政治の登場

武士が説明し終わったところで、2個目の藤原家による摂関政治について説明しましょう。

摂関政治というのは、天皇の外戚(母方の父)が天皇をバックアップするシステムの事です。いわゆる、摂政や関白のことを指します。

この形式時代は古くからありましたが、
新しかったのは、858年に藤原良房が、臣下ではじめて摂政になったということです。

臣下というのは、皇族に使える家来の意味ですが、要するに皇族でない貴族のことです。
藤原家というのは、中臣鎌足が藤原鎌足となってからそれ以降続いている家柄で、鎌足は有名豪族ではあるものの皇族ではありません。(詳しくは姓と氏について:蘇我氏と物部氏ってそもそも誰なん?)

その後、摂政・関白の職は、藤原氏北家(藤原家は不比等の後に北家・南家・京家・式家に分かれた)が世襲し、11世紀末の150年以上に渡って続くこととなります。

上皇・法皇による院政の登場

武士、摂関政治と続いて、ラストは院政(いんせい)についてです。
院政とは、上皇や法皇が政治の実権を掌握し、政治を治めるシステムの事です。

ここでもう一度区別をしておきましょう。

  • 朝廷:天皇、関白・摂政、(+貴族)
  • 院政:上皇、法皇

朝廷というと、天皇が基本トップで、摂政・関白・貴族がくっついてきます。

対して、院政は上皇・法皇による組織です。
上皇は天皇を譲位したとき、法皇は上皇が出家したときに呼ばれます。要するに、天皇を引退したおじいちゃん、もしくは出家したおじいちゃんが政治を治めていたということです。

院政の脅威はここにある

さて、院政が脅威だったのは、手ごまとして武士を持っていたという事です。
院政は独自の軍(武士)を持っていた、ということですね。

で、この武士の凄かったところは、当時脅威だった僧兵を平気で殺せたという事です。
当時の貴族はもっぱら仏教信者でした。そして世に不満があると、僧兵が武器を持って朝廷に強訴を繰り返していました。当時の貴族は、仏罰を恐れて何もできませんでしたが、武士には関係ありません。

まとめ

というわけで、武士、摂関政治、院政、そしてついでに出てきた僧兵も説明しました。
ここらで、この4つをまとめてみましょう。

院政は武士を持ち、武士は僧兵を倒すことができます。もちろん、貴族自身は僧兵に対して手を出すことはできません。
さて、これらのことを押さえつつ、実際の出来事をさらりを振り返ってみましょう。

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平安時代を駆け巡る!

というわけで、最初の図に戻りましょう。

  • 桓武天皇の後、武士である平将門の乱
  • 藤原氏による摂関政治の影響が強くなる(藤原道長)
  • 院政の影響が強くなる(白河上皇とか)
  • 武士である平清盛ら平氏が強くなるが、最終的には源氏である源頼朝が勝つ

さて、これで大まかな出来事は分かったと思います。
この流れは押さえつつ、今度は人物に注目してみましょう。

平将門

平将門は、朝廷に反旗を翻した武士です。
将門は、関東の独立を目指していました。朝廷の重税に苦しんでいた関東人は将門に喜んで協力し、そして将門は自らを新皇と名乗り、ついに関東全域を制覇します。

しかしながら、朝廷を制覇するまでは一歩及ばず、同じ関東武士との戦いで敗れ、将門が夢見た関東独立国は250年後の鎌倉幕府までお預けとりました。

朝廷側としては、ここまでの大規模な反乱は初めてだったため、大きく動揺しました。
そのため、見せしめとしてか、一時期平安京で将門の首がさらし首となりました。その後、首は関東に運ばれ、将門の首塚として今でも残っています。

今でも大手町にある将門の首塚は、移動しようとすると毎回祟りがあるため、今でもオフィスビルの谷間に鎮座しているそうです。

藤原道長

摂関政治時代の全盛と言えば藤原道長です。
道長は4男だったので、普通であれば実権を握ることはできないのですが、兄たちが伝染病で次々に死亡。さらに、3人の娘を皇后(天皇の妻)にするという快挙を成し遂げ、30年の間実権を握ることとなります。

『この世をば 我が世とぞと思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば』
という望月の歌で有名です。意味は、『満月(望月)のように欠けたところがないワイの人生最強やで』みたいな意味です。

ただ、この歌を歌った後、摂関政治はうまく続かず、上皇へと実権が移ることになります。

白川上皇

当時、8歳の息子だった堀川天皇に譲位した白河上皇は、院政を開設しました(1086年)。
白川上皇は、堀川・鳥羽・崇徳の3代、43年にわたり上皇であり続け、こちらもまた名言を残しています。

『思い通りにならぬのは、加茂川の水、双六のサイ、僧兵だけ』
つまり、自然と運と仏教以外は思い通りだぜ!というわけですね。

院政は白河、鳥羽、後白河上皇と3代100年にわたって続きます。しかしながら、些細な内輪もめから発展した争いをきっかけに、その座を武士に譲ることとなってしまいます。

譲るきっかけとなったのは、保元の乱という崇徳天皇VS後白河天皇の身内争いでした。
その戦いで、崇徳天皇側は平忠正・源為義率いる武士団を、そして後白河天皇側は平清盛・源義朝率いる武士を使い、大きくぶつかります。

戦いの末、勝利したのは後白河天皇側でしたが、武士自身に政権を揺るがす力があると分かった戦いになりました。
この保元の乱をきっかけに、平清盛による平氏政権を認めてしまう形になってしまいます。

平清盛

保元の乱のときに重宝された平氏と源氏の武士たちでしたが、源氏は急激に衰え、代わりに平氏の平清盛が急速に力を伸ばしてきます。
そして、1179年に後白河法皇を幽閉するクーデターを起こし、平清盛は朝廷の権威を握り、平氏政権を樹立します。

平清盛で有名なのは『平氏でなければ人でない』という名言を残しますが、その後は保元の乱で衰退したはずの源氏にとって替わることとなります。

源頼朝

さて、平安時代も間もなく終わりを告げます。
平氏の独占に不満を持っていた源氏が、全国で声を上げたのです。淘汰の結果、源頼朝と源義仲が主導権を残ることとなりました。

そして、全国で見たとき以下のような4強になっていたいました。

  • 平氏:畿内・西国
  • 源頼朝:東国統一
  • 源義仲:北陸
  • 藤原秀衡:東北

しかし、平清盛は1181年に急逝、さらには源義仲によって平氏は攻められ…などなど続き、結果として源頼朝が残り3強を倒し、1189年全国を平定することとなります。

まとめ

長々と語りましたが、結局は最初の図にもどって、これだけ押さえておけばいいと思います。

  • 桓武天皇の後、武士である平将門の乱
  • 藤原氏による摂関政治の影響が強くなる(藤原道長)
  • 院政の影響が強くなる(白河上皇とか)
  • 武士である平清盛ら平氏が強くなるが、最終的には源氏である源頼朝が勝つ

細かいところは気になったら調べればいいと思います。
ここでは、流れをつかむことに趣旨を置いているので、平安時代の細かいいざこざはよく分からんという方は、上記のフローを覚えていただければいいのではと思います。

参考文献