日本史①いい感じに理解する(邪馬台国・大和政権・蘇我氏や聖徳太子)

日本史

みなさん、日本史の始まりはどこからだったか覚えているでしょうか。

縄文時代、弥生時代を経から始まって、卑弥呼と大和政権をふんわり間に挟み、急に蘇我氏と物部氏が登場しませんでしたか?さらに急に推古天皇や聖徳太子(厩戸皇子)も登場してきます。

しかしながら、そもそも蘇我氏や物部氏ってなんでしょうか?また、天皇はいつから登場して、天皇とはいったいどんな存在だったのでしょうか。
今回はそのあたりの概要を説明していきたいと思います。また、疑問点は別の記事で説明していきたいと思います。

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さくっと概要

まずはあらかた日本の始まりの部分について思い出していきましょう。

狩猟採集から農耕民族へ

まず、縄文時代・弥生時代のお話です。
縄文時代では狩猟採集といって、日々の食事を得るために狩りや木の実をとって、移動しながら生活していました。
この当時は、争う理由が無かったので平和な時代だったそうです。

そして、いつしか稲作をつくるようになり、その場所に定住するようになります。この辺りを弥生時代と呼びます。
定住すると、場所や時期によって豊作・不作が現れます。すると人々は、豊作の土地を奪おうと襲うため争いが起きます。以後の日本史は、土地は誰のものなのかという事で争う事になります。

  • 縄文時代:1万3000年前~
  • 弥生時代:紀元前3世紀~3世紀

謎だらけの邪馬台国から大和政権へ

弥生時代あたりから、人々は各地で国を形成し、消滅・統合を繰り返します。
そして、邪馬台国(やまたいこく)と言う当時最大級の国家が30ヵ国の小国を治めるようになります。

この辺りの歴史は、中国の魏志『倭人伝』の記述で知ることができました。なぜなら、当時日本にはまだ文字の文化がありません。外国の書物の記述を元に、何となく想像するしかないわけですね。

紀元前一世紀では、漢書(地理書)において、倭人(当時の日本人の呼び名)に100国ぐらいあったということ、1世紀には後漢書(東夷伝)では倭の如国王が光武帝から印綬を授かったということ、3世紀には魏志倭人伝において邪馬台国が存在した事などが分かっています。

そして時代は次の大和政権に移っていきます。

  • 邪馬台国:239年~300?年

謎だらけの大和政権

大和政権は、文字の呼び方が邪馬台国の『ヤマタイ』と『ヤマト』が似ていることから、邪馬台国から大和に呼び名を変えたのではないか、という説があります。
やぎをさんもこの考えを非常に推していきたいと思っていますが、理由は特にありません。

この時代の特徴は、大和政権のトップである大王(おおきみ)を中心として、豪族との連合国家ができたとされています。

豪族と言うのは、各地で力を付けた人たちです。
今でいうと、県ごとに力を持った一族と言った方が分かりやすいでしょうか。奈良県では、それが大和政権にあたり、さらに豪族たちのトップにいたという訳ですね。

さて、大和政権において連合国家が出来たと言える根拠についてですが、『各地で見られる古墳がどれも同じような形状をしている』からと言われています。

弥生時代や邪馬台国の時代では、各地域で特色のある墓や、墓に入れる人物のルール(墓制)がありました。
それらがある時点で、共通された墓制になったということから大和政権が全国を統一したのではないか、と言われています。

また、史実がふわふわしている理由は先程と同様です。
当時日本(倭の国)では文字が無かったので、中国の歴史書を頼りにしていましたが、中国ではこの辺りから南北朝時代に入り、争いが絶えなくなります。そのため、日本を知る術が途絶えてしまいました。私たちは、さらに何となく理解するしかありません。

  • 大和政権:300?~592年(ここでは、推古天皇即位までとする)

蘇我氏と物部氏と聖徳太子(厩戸王)と推古天皇

さて、急に登場人物がたくさん出てきます。
蘇我氏と物部(もののべ)氏が、朝鮮から渡ってきた仏教を取り入れるかどうか、というところで争います。卑弥呼や大和政権の時代から朝鮮との関わりがあったため、ついでに仏教も渡ってきました。

仏教を国家として取り入れるということは、宗教的な面と統治体制的な面の2点が変わることを意味します。
宗教的な面で言えば、それまでの倭の国の祖先神を認めないことを意味するということです。
そして、統治の面ではカースト制度のようにピラミッド体制の統治国家にしていくことを意味していました。これは、大和政権の連合国家(すなわち、分権された国家)を、中央集権化することを意味していました。
この仏教を統治に取り入れるか、取り入れないか問題を巻き起こしたのが蘇我氏と物部氏です。

さて、この時点で蘇我氏と物部氏がいきなり出てくるわけですが、こいつら誰やねん、という事は別のところでまた説明するとしましょう。
この後、蘇我馬子(そがの うまこ)は仏教を信奉する渡来人を味方につけ、物部守屋(もののべの もりや)を滅ぼし、朝廷の実権握ります。

蘇我馬子はその当時の朝廷を裏で操っていた、といってもいいでしょう。以下の家系図を見てみましょう。

馬子は推古天皇を帝位させ、蘇我氏の血を引く聖徳太子(厩戸王)を推古天皇の政治を補佐する役割(摂政)の位につけます。
推古天皇は、聖徳太子の叔母に当たります。つまり、朝廷を蘇我一族で固めることで支配しようとしていたという訳ですね。また、図から分かるように、蘇我氏は天皇と同じくらい位が高かったことが分かります。

また、図中の崇峻天皇は馬子によって部下に暗殺されてしまいます。代わりに推古天皇に帝位させた、というわけです。
さて、その後は冠位十二階制度によって、豪族による世襲制でなく、個人の才能や実績によって位階が与えられるようになり、倭の国の中央集権化が一気に進むこととなります。

  • 飛鳥時代:592年~710年

気になるところを挙げていく

ざっと説明してきましたが、いくつか気になる点が出てきたので挙げてみましょう。

この辺りが気になった方は、リンクからどうぞ。

また、関連記事として、こちらもどうぞ
なぜ我々は【古事記】を習わないのか

とりあえず、先に進みたい!という方は、日本史②いい感じに理解する(大化の改新・天智天皇・壬申の乱)で会いましょう。

参考文献