日本史②いい感じに理解する(大化の改新・天智天皇・壬申の乱)

日本史

前回の記事:日本史①いい感じに理解する(邪馬台国・大和政権・蘇我氏や聖徳太子)

さて、前回は、蘇我氏チーム(蘇我馬子・推古天皇・聖徳太子)が覇権を握ったところまで解説しました。
このまま蘇我氏チームがうまいこと大和国をまとめてくれるか思いきや、そう上手くは行きませんでした。

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蘇我入鹿が調子こいた

蘇我馬子の次は、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と続きますが、だんだんと態度が横柄になっていきます。

蝦夷は、天皇だけが行える神聖な行事を勝手に執り行ったり、大臣の地位を入鹿に勝手に譲るなど、天皇や他の豪族に反感を買うことをし始めます。
それでも、天皇や他の豪族たちに対し、敬う態度を見せていたのでまだセーフでした。

しかし、入鹿の時にその反感は確実なものになりました。

聖徳太子の息子を自殺させる

643年に、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおおう)が自殺します。

実は、自殺した山背大兄王と、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、皇位継承を争っていました。

蘇我氏としては、古人大兄王子を継承させたかったため、邪魔だった山背大兄王に謀反の罪をかぶせて自殺させます。
この事件が多くの貴族から反感を買いました(なぜ古人大兄王子を継承させたかったのか、についてはその父である舒明天皇に即位させたことに繋がりますが、ここは諸説あります)。

ここまでを図にしておきましょう。

歴史で語られる最初のクーデター

このような状況の中、中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、皇位継承の候補の一人であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と結託し、クーデターを起こします。

中大兄皇子は皇族ですが、中臣鎌足は違います。
中臣という氏(うじ)は、蘇我氏や物部氏と同じように大和国に携わる有力豪族で、主に神事・祭祀に携わっていました(こちらで詳しく解説しています:蘇我氏と物部氏ってそもそも誰なん?)。

中臣鎌足は唐から帰国した者たちから大陸の知識を多く吸収しており、天皇による中央集権国家を目指そうとしていました。
そのためには、だんだんと横柄になってきていた強大な蘇我氏が邪魔でした。

ここまでを図示してい見ると以下のようになります。

乙巳の変というクーデター

そこで、中臣鎌足・中大兄皇子らは、偽りの儀式を装い、入鹿を誘い込みます。

当初は刺客が入鹿の暗殺をする予定でしたが、躊躇したのを見かねた中大兄皇子本人が入鹿を切り捨てます。
そして、その後蝦夷も自害します。こうして蘇我氏宗家は滅びました(ただし、分家は残り、乙巳の変以降もそこそこ高い地位にいたそうです)

大化の改新と天智天皇

クーデターの後に、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子となりました。

そこは中大兄皇子が天皇になるんじゃないんかい!と突っ込みたいところですが、このまま中大兄皇子が天皇になってしまうと、それはそれで反感を買う恐れがあったのかもしれません。そのため、孝徳天皇のワンクッションを入れたと考えられます。ちなみに皇太子というのは、次期天皇ということを表します。

結果として以下のようになりました。

翌年改新の詔を発表し、公地公民、交通・軍事制度の中央集権化、戸籍作成、税制などが取り入れられます。

その後、長らく皇太子の位にいた中大兄皇子は、667年に天智天皇になります。また、都に関しても、孝徳天皇時代の難波(なにわ)から、近江大津宮に遷都します。

蘇我氏の暴走を止めた天智天皇が、このまま上手いこと回してくれると思いきや、天智天皇もやらかします。

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天智天皇のやらかし&壬申の乱

天智天皇もやらかしてしまうわけですが、それは後継者問題でした。

後継者として、同母弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)がいました。当時、天皇の後継者になる人物は、兄弟相続が原則で、皇族や有力豪族出身の皇后から生まれた皇子のみ、と決まっていました。

この原則に従えば、同母弟の大海人皇子が後継者として当てはまります。
さらに、大友皇子の母は、采女(うぬめ)という身分の低い女性で、皇族に準ずる皇后ではありませんでした。それらを無視して、自分が寵愛する大友皇子を後継者として選ぼうとしたわけです。

そして、天智天皇は大友皇子を太政大臣に就任させます。
太政大臣は、政治における最高権力者+皇太子(次期天皇の最有力候補)の位です。つまり、天智天皇は後継者として大友皇子を選んだわけです。

大海人皇子はとりあえず逃げるが…

この決定に対し、殺されるかもと思った弟の大海人皇子は、すぐさま頭を丸めます。
そして、皇位継承する意思がないことを告げ、都である大津から100キロ離れた吉野に家族と隠棲します。

その後、671年に天智天皇が崩御し、大友皇子が天皇になります。
しかし、朝廷内では、没した天智天皇が作った政治のシステムに対し不満が募っていました。これをチャンスとみた弟の大海人皇子は挙兵し、大友皇子のいる大津宮を攻め入ります。

この、大海人皇子VS大友皇子の戦いを、壬申の乱と呼びます。
この壬申の乱は一か月続きましたが、大津が落ち、最後は大友皇子が自害することによって戦いは終結しました(672年)。

壬申の乱のその後

戦いに勝利した大海人皇子は、飛鳥で即位し、天武天皇となりました。
天武天皇は壬申の乱という武力で勝ち取ったため、周りの豪族も従わざるを得なくなり、その後は安定した時代になります。

また、統治の面でも変化が起きます。
今までは、天皇はトップにいたとしても、地方を治めるのはその地にいる豪族でした(地方分権)。
しかしながら、天武天皇以降は権力が天皇に集中し、地方の豪族の力が弱まっていきます。そして、だんだんと天皇の中央集権化社会へと変化していきました。

ここまでのまとめ

蘇我氏がやらかしたので、天智天皇が蘇我氏本家を滅ぼしました。
しかし、天智天皇もやらかしてしまい、そのしわ寄せが壬申の乱を引き起こし、弟が天武天皇として即位しました。

次回:日本史③いい感じに理解する(天武天皇と奈良時代)

おまけ・参考文献

余談ではありますが、蘇我氏一族の馬子・蝦夷・入鹿は、なぜか動物や卑下する名前がついています。
この名前に関していろいろ意見があるようですので、気になる方は探してみてください。 >> 参考:蘇我氏三代の蔑称