日本史③いい感じに理解する(天武天皇と奈良時代)
前回の記事:日本史②いい感じに理解する(大化の改新・天智天皇・壬申の乱)
前回は、蘇我氏・天智天皇がやらかしてしまい、壬申の乱に勝利した天武天皇に即位したところまで行きました。
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天武天皇の功績
天武天皇は皇親政治(従来は有力豪族が就いていた役職を皇族に任せるよう)にすることで、中央集権化を強めていきました。
また、『天皇』を称号とし、「日本」を国号としました。このころから、天皇と呼ばれるようになり、倭という国から日本と呼ばれるようになったわけです。
さらに、古事記と日本書紀の編纂を命令したのも天武天皇です。
参考:
古事記と日本書紀の違いとは?
ドロドロの奈良時代
710年、天武天皇の娘である元明天皇は、藤原京から平城京(どちらも奈良県)に遷都します。
その後の平安京(京都)に移るまでの約80年間を奈良時代と呼びます。この時代は、天皇とその権力者がコロコロと変わりました。
天皇とその時代の権力者の移り変わりに関して細かく覚える必要はありません。
覚えてほしいのは、
- ①天皇の系列は天武天皇系であること
- ②実際の政治的権力を持ったのは、8割方藤原一族であったこと
- ③天武天皇系列は滅びるということ
です。
天武天皇系の天皇が牛耳ったのは何となくわかると思いますが、政治的権力を持った藤原氏とはどのような一族だったのでしょうか。
藤原氏は、中臣鎌足が藤原の姓になり、その子供である藤原不比等(ふじわらふひと)による一族です。
藤原不比等の子供として、藤原4子という兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)と宮子・光明子の姉妹がいます。
藤原4子は政治の権力者として、そして宮子・光明子は文武天皇・聖武天皇の妻となっています。
奈良時代の権力者の移り変わり
権力者の移り変わりを覚える必要はありません。
コロコロを移り変わった結果どうなったかというと、天武天皇系列が途絶えてしまったということです。
称徳天皇(考謙天皇)には子がいなかったため、天智天皇系である光仁天皇が継承します。
天智天皇は、かつての中大兄皇子です。壬申の乱で自害した大友皇子(弘文天皇)は、天智天皇(中大兄皇子)の息子です。
称徳天皇(考謙天皇)に子がいなかったことを逆手に取り、道鏡という仏僧が皇位を奪おうとした事件もありました。
その他細かいところは表でまとめましたので、興味があればご覧ください。
~天皇・権力者の移り変わり~
この表における大きな出来事は、元明天皇が藤原京から平城京(奈良)に遷都したことでしょうか。
これは、次回の桓武天皇について語るときに効いてきます。後は覚えても覚えなくてもいいです。
移り変わりを覚える必要はありませんが、天皇や藤原のなんやらが、『誰から生まれたのか』についておさえておくと分かり良いかもしれません。
家系図を用意したので、理解を深めてください。
~天皇の系図~
~藤原氏の系図~
光明皇后は臣氏(皇族以外の家柄)で初めて皇后になりました。
橘諸兄は、天皇の子孫なので皇族になります。
~橘家の系図~
というわけで、いろいろ天皇・権力者ともに色々変わりました。
しかしながら、最後は考謙天皇に子がいなかったため、光仁天皇が治めることとなります。光仁天皇の後は、桓武天皇が治める時代となります。