【宗教改革】から、戦争のしやすい【絶対王政】へ

世界史

各地でプロテスタントが出てきたことにより、宗派による争いが起きるようになりました。プロテスタントは、ルターであったりカルヴァン派であったり、イギリスのイングランド国教会です。

カトリックに対抗するプロテスタントの登場によって、宗派による争いが多発します。
これによって必然的に戦争が多い時代になってきます。そして、戦争しやすいように絶対王政の時代になっていきます。

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戦争が多いとどうなるのか

戦争が多いと、王様ワントップになりたがります。
なぜならワントップの方が、判断を下すのが比較的速いからです。今のようにいちいち議会を通していては対応が遅くなります。

また、王様がワントップになることで、国と国の間の国境も明確に定められます。そうなると、国一丸として戦うという意思が生まれやすくなります。

ちなみに、他の地域では

  • アメリカ大陸:イギリスを追い出されたピューリタンが住み着く
  • イタリア:混乱のまま

という感じです。

王様ワントップになる以前はどうなっていたのでしょうか。

王様ワントップ以前は?

王様ワントップ以前は、封建社会になっていました。『土地あげるから俺と主従関係を結んでくれ』というものですね。お金あげるから主従関係を結んでくれ、と言った方が分かるでしょうか。

王 => 貴族(諸侯) => 兵士という主従関係になっています。
例えばある王様が『誰か兵士を集めておくれ~』と言った場合、国に属しているというより、主従関係を結んでいるかどうか駆けつける兵士の数が変わります。
つまりは国としての国境があいまいになっていました。

そこで、『契約で結ぶ』をやめ、国の国境を決め、王様ワントップでそのエリアを支配する主権国家という新しい支配の形が生まれました。
このように国境が決まっていると国一丸となって戦うことができます。封建社会では、戦争になったとしても『まずは兵士を集めるところから』になってしまうためワンテンポ遅れてしまいますね。

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宗教戦争にどんなものがあったか

さて、宗教戦争といってもピンときませんので、代表的なものを見てみましょう。

  • 【ピューリタン革命】王党派(イギリス国教会)VSピューリタンー(カルヴァン派)
  • 【ユグノー戦争】カトリックVSユグノー(カルヴァン派)
  • 【三十年戦争】カトリックVSルター派(カルヴァン派)

オランダ独立戦争:スペインVSオランダ

ハプスブルグ家の流れをくむガチガチのカトリックであるスペインのフェリペ2世と、カルヴァン派のオランダです。

オランダは決して強い国ではありませんでしたが、抵抗は粘り強く20年間戦争が続きました。太陽の沈まぬ国と呼ばれるくらい世界中に植民地を持っていたスペインでしたが、これを機に衰退がはじまります。

オランダはネーデルラント連邦共和国として独立し、東インド会社を設立後、スペインに変わって中継貿易という形で発展します。

三十年戦争:カトリックVSルター派(カルヴァン派)

神聖ローマ帝国(今のドイツあたり)では、ハプスブルグ家のカール5世が、『カトリックかプロテスタント好きな方を選べばいいよ』と言ったことがきっかけで戦争が始まります(アウスブルグの和議)。『どちらか選べばよい』ということは、一見良いことを言っているようにも聞こえます。

しかしながら、これによって貴族たちがカトリックとプロテスタントでごちゃまぜになり、統一どころかかえって不協和が生まれ戦争に発展してしまうのです。しかも、ヨーロッパジュを巻き込み、三十年続きました。17世紀最大の戦乱ともいわれます。

三十年戦争後にプロイセン

その後、神聖ローマ帝国では、プロイセンとオーストリアで分かれます。
オーストリアはハプスブルグ家で、ヨーロッパ名家です。プロイセンは、三十年戦争後にできた新参者の国で、軍備を強化することでまとめてきたフリードヒ=ヴェルヘルム一世です。この二つの巨頭が争い、結果的にプロイセン側が勝利します。

また、プロイセンは、フリードリヒ2世がまとめるようになります。この辺りから、ドイツ人特有の質実剛健・倹約のドイツ人が形成されていきます。

まとめ

宗教改革をきっかけに、封建社会から主権国家である絶対王政に変わってきました。
この辺りから国が国として際立っていくんだなぁくらいに思ってくれればOKです。

次回:【絶対王政】から【国民】の国家へ

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